第5章 旅の終わりのシャンソン

「こんな田舎にいられない!」と、都会に憧れて飛び出した盛岡は、小綺麗な都会に変わっていた。今や東京から最速の新幹線で2時間10分。日帰り圏内である。だがしかし、おっとりとした感じは変わっていない。
盛岡での暮らしは現在進行形なのであれこれ語らずにおくが、コロナ禍という不測の事態で、盛岡で最初に開業した店から櫻山の現店舗へ移転したことは大きな出来事だった。実は、当初櫻山が候補地だったのだが空きがなかった。ところが、恐らくコロナ禍で閉業したのだろう、小さな店舗が空いたのだ。市民に「櫻山さん」と呼ばれ親しまれる櫻山神社の門前町であるこのまちは、やはり「気」の良さを感じる。我ながら「相変わらず引きが強いな」と感心した。東京渋谷に初めて開業した店にどことなく似ている。原点に帰った気分だ。しかし、好事魔多し!移転開業直後にコロナ感染し1ヶ月の休業を余儀なくされた。

さて、あの時のユキさんのアドバイスどおり、シャンソンに拘ることなく、様々なジャンルの音楽を歌とフルートで表現するスタイルで活動しているワタシだが、地元では勿論のこと、仙台、東京、大阪、博多と、お陰様で活動の範囲は広がった。
そして、Uターンしてから知り合った星ゆきこさんの手話とのコラボレーションは、賢治さんの音楽劇と共にワタシのライフワークとなった。星さんの繋いだご縁で、今年は遠く鹿児島県は鹿屋(かのや)で演奏する機会をいただいたのだが、やはりワタシの人生にはシャンソンがついて回っているようで、鹿屋巡業の折にシャンソン絡みの不思議なことがいくつも起きたのである。あの時新宿で奈良さんと出逢った頃のように・・・。

 

先ずはここから語らねばなるまい。大阪を訪ねる度にa&wには必ず顔を出している。ところが、今年6月に訪ねた時、眞理さんのお姿はなかった。いつも笑顔で冗談ばかり言っている福田先生が神妙な面持ちで眞理さんのご病気のことを話してくれた。容態は思わしくなかったようで、翌7月に眞理さんは天に召された。

8月の鹿屋巡業では、賢治さんの音楽劇「大隅国(おおすみのくに)イーハトーヴ」を上演。お陰様で好評だった。
本番の翌朝、地元のラジオ番組に出演させていただいたのだが、パーソナリティーの方にはじめましての挨拶をすると「シャンソン向きの声ね」と言われたのだ。関西学院大学の出身とのことで、関西に詳しいワタシと話は盛り上がる。すると西宮の仁川に住んでいたとのこと。実は、眞理さんも仁川に住んでおられたのだ。
そして、ラジオ局を出て、桜島を眺めながらフェリーで鹿児島市へ移動。ホテルのチェックインまで時間があるので、少し散歩でもとザビエル公園に向かった。「これは火山灰かな?」とザラザラした地面をすり足で歩きつつ、ふと「メルヘン」という昭和チックな喫茶店が目に留まりドアを開けた。お客はワタシ以外におらず、BGMがわりのテレビは、高校野球の決勝戦が始まろうとしていた。 旅人に見えたのだろう「どちらから?」とママ。「岩手からです」「お仕事で?」「ええ、実は鹿屋で歌ってきたんです」「あら、歌い手さんなのね。シャンソンは歌わないの?」
またしても話題はシャンソンに。義妹がシャンソン歌手だったと、写真や楽譜まで見せてくれた。 そして、向田邦子さんの話に。よく来店していたそうだ。向田さんは飛行機事故で亡くなられたが、なんとその日が御命日。過去か現在か、あの世かこの世か、なんとも不思議なひとときを過ごした。

翌朝メルヘンを再訪し、鹿児島空港から伊丹経由の帰路に就いた。
その乗り継ぎの伊丹空港でのこと。花巻行きの飛行機に乗り、飛行機が滑走路に出ると窓から甲山(かぶとやま)が見えた。何度も伊丹空港から飛び立っているのに、甲山が見えるとは知らなかった。甲山は西宮の象徴のひとつで、仁川はその麓のまちなのだ。小さな窓の向こうから微笑みかけているようだった。
これは眞理さんが「ともん、もっと唄うのよ!」と背中を押しているのに違いない。シャンソン歌手と名乗るほど専門性がないとか、歌で食えるほど上手くもないとか、これは言い訳に過ぎない。ステージに立つならば責任を持て!と自責した。
離陸体制に入り、甲山が見えなくなってゆくまでのわずかの時間、甲山を背に浮かぶ眞理さんの面影に手を合わせる。 「メッセージしかと受け止めました」と心で唱え飛び立った。

そしてその翌月、さとう宗幸さんとの共演の機会をいただいた。こちらも星さんが繋いでくれたものだった。さとう宗幸さんもまたシャンソンに造詣の深い方だ。大ヒットした「青葉城恋唄」の裏面に収録されている「昔きいたシャンソン」という曲がこれまた名曲で、岸洋子さんをはじめ多くのシャンソン歌手に唄われているのだが、それをワタシがフルートでコラボすることになった。 これがワタシのシャンソニエデビュー曲「小さなシャンソンの店の片隅で」に似ているのだ。
これもまた原点回帰!人生って本当に不思議だ。というより導かれるものなのだということをあらためて確信した。
さとう宗幸さんのリードで無事に吹き終えた。

11月には眞理さんを偲んで大阪でコンサートを開催した。眞理さんがワタシに唄えと楽譜を作ってくれた「パピエ」という曲をようやく唄った。そして「昔きいたシャンソン」も。眞理さんの遺影の前で不思議なほど力を抜いて唄うことができた。

 

さて、この長い回顧録を書こうと思ったのには理由がある。ワタシは今月57歳の誕生日を迎えた。キリのよい数字ではないのだが、ワタシにとって節目の年なのだ。母方の祖母は57歳で亡くなったと母からきいていた。その時ワタシは2歳。残念ながら祖母の記憶はない。実は祖母の遺影の隅に祖母が握る小さな手が写っているのだが、ワタシの手なのだそうだ。その遺影は今は仙台の母が入居している施設にある。あまり身体が丈夫ではない母に、なんとか57歳までは生きてほしいと子供心に願っていた。母には話さなかったが、母が57歳を迎えた時にはホッとした。その母も既に80代半ばである。母を訪ねると同時に祖母の遺影に手を合わせ「僕の手を握ってくれてありがとう」と語りかける。月日は流れ、ワタシが今月57歳を迎えた。

鹿児島旅の終わりに眞理さんの魂を感じられたことをブログに書こうと思いつつ、その節目を迎えたことで、一気にワタシの音楽歴を遡るエッセイになってしまった。これはワタシの備忘録として、時々立ち止まっては読み返そうと思う。あの時の出逢い、あの人の言葉・・・こんなにも万感の思いで迎える大晦日は初めてだ。今年も嬉しい出逢いも、辛い別れもあったが、これが人生。

大阪の燈門は次の節分を目処に完全に手放すことにした。引越す毎にいろんな物を手放してきたし、コロナ禍もまた本当に必要なものをあぶり出させてくれた。そして、その空いたキャパシティにまた何かが入ってくるのだ。

人生は大いなる旅。思えば風の吹くままに旅してきた。なんて自由、なんて幸せなのだろう。その終わりはどこでどのように迎えるのかはわからないが、お店と音楽活動はこの後も長く続けていく。東京、大阪とお世話になった方々にも、少しは大人になった姿を見せられるよう、今はひたすら岩手で精進しようと思う。
そして、またいずれ風が吹くのだろうが、その時にまた旅支度を始めればよいだけのことだ。

今日Uターンして5度目の大晦日を迎えた。お店でアダムスから受け継いだ鏡を、そして部屋で父の位牌と姉の遺影を磨いた。15年くらい前の年の暮れ、久々に姉と会った時に「盛岡に帰るつもりは全くない」と言ったワタシに、姉が「どうして?」と寂しそうにたずねたことをふと思い出した。実は昨年、小さな部屋だが盛岡駅前の中古マンションを購入した。ベランダから岩手山を望み、眼下には北上川が流れる。
その小さな部屋に正月の花を飾り、お客様からいただいたおせちをテーブルに用意し、南部鉄瓶で沸かした湯でコーヒーを淹れた。「なんだ、盛岡が大好きなんじゃないか・・・」と目を細めながら。

〜おわり〜

 

長く拙いエッセイにお付き合いくださり、ありがとうございました。2023年もどうぞよろしくお願いいたします。良いお年をお迎えください。