第4章 第二の故郷大阪

かくして23年ぶりにワタシは大阪人となった。時は4月中旬、桜は終わり、日差しは既に眩しかった。岩手から大阪の大学に進学し、そのまま大阪の企業に就職して東京に転勤するまでの7年半暮らしていたので、土地勘も残っている。
免許証の住所変更手続きに行けば「東京から来はったん?どっちが住みやすい?」と、また、新居の近くの飲み屋で東京から引っ越して来たと話すと、近くの席にいた客が「東京嫌いやねん」とボソッと言う。
「はいはい、洗礼だな」と軽く受け流す。何か一言いたがる大阪人、そこに悪気はないことも知っている。むしろ久々に大阪弁に囲まれることが心地良かった。

久々の大阪は小さく感じた。かつて暮らしていたのは吹田。大阪市に住むのは初めてだったが、大阪市中心部はフラットな地形で、自転車があればあちらこちら回ることができる。梅田も心斎橋も難波も山手線の輪の中に収まる規模である。大阪が小さいというより東京が大きすぎるのだ。

さて、a&wでの勤務が始まった。久々に雇われの身となり、出退勤時にタイムカードを押すのが新鮮だった。
客層も良く、フレンドリーな方ばかりだった。しかしながら、次期オーナーとして見られる緊張感が常に付きまとう。
それでも、ワインエキスパートであるオーナーの福田先生にワインを教わることも楽しく、何よりマダムの中西眞理さんがシャンソン歌手だということで、頃合いを見ては眞理さんが唄い、ワタシも唄いそして吹く。楽しい日々だった。
しかし、ワタシが引き継ぐべき店ではないと感じ始めた。お客様はみな福田先生と眞理さんのファンであり、本業はデザイナーである福田先生が手掛けた店内はまさしく福田城。最大のネックはそのキャパシティと、あくまでレストランであるということだ。50席以上ある広いスペースはイベントがない限り埋まることはなく、シェフを雇っているにもかかわらず、食事をしに来るお客様は少ないのだ。シェフは腕も人柄も良いのだが、福田先生とのお喋りを楽しみに来るお客様にとって食事は二の次なのだ。
ワタシが継ぐとなれば今のお客様は離れることだろう。レストランとしてのレベルを維持しながら、50席の店を商うことは至難の業だろうと思った。
勤務すること10ヶ月、a&wを円満退職した。

(a&wに勤務していた頃)

さて、雇われの身ということは、退職は失業を意味する。実は、a&wを辞めて大阪のどこかで自分の店を持とうと思っていることを、本町(ほんまち)で「武者」という居酒屋を営む大学吹奏楽の後輩に相談していたのだが、なんとその向かいの店舗が空くというのだ。大阪のど真ん中にして家賃は面積比で東京都心の約半分、しかも1ヶ月フリーレント、つまり最初の1ヶ月は家賃ゼロとのこと。そして、更新料もないという。首都圏では賃貸物件を契約した場合、その契約期間(平均二年)を満了すると、更新するのに新家賃の1ヶ月分の手数料が発生するのだが、そのシステムが大阪にはないのだ。
場所もタイミングもこれ以上なく、即決した。そして、燈門は再び大阪の地で燈(ひ)をともすこととなった。

(本町燈門の店内)

本町燈門もお陰様で好調だった。やるべきことは東京でやってきたことと何ら変わりはない。時にワタシの下手くそな大阪弁を笑われたりもしたが、既に肝の据わっていたワタシはエトランゼとして暮らすのも悪くないと開き直っていた。
また何と言っても大学吹奏楽のOBが支えてくれた。さすがは応援団、その組織はしっかりしたもので、多くのOBが来店し、集客に苦労することはなかった。

さて、武者の向かいが空いたこともそうだが、遡れば眞理さんがシャンソン歌手だったことも運命的な出逢いで、なんと「サローネカンタータ」という御自身の音楽教室の会場をa&wから燈門に移してまで、ワタシを応援してくださった。そのレッスンピアニストで、今もワタシと共演している石田美智代さんもまたワタシの背中を押し、眞理さんと共に大阪のいくつものライブハウスに繋いでくださった。心斎橋のアートクラブとコンテローゼは今でもお世話になっているし、小さなところでは個人宅、大きなところでは梅田芸術劇場、メルパルクホールにも出演の機会をいただいた。この時期なくしてワタシは今唄っていなかったと思う。
そして、ピアニストの吉田幸生さんと共に初アルバム「赤とんぼ Dear Friends」の作成にもトライした。

ところが、またしても両親のことで落ち着かない日々が始まった。両親といっても父は実父ではない。母は三度結婚している。実父は先述のとおりだいぶ前に亡くなっているが、三人目の夫と離婚するというのだ。どうも長崎に避難移住した後で「すれ違い」が始まったようだ。離婚だけならよくある話だが、母にはワタシ以外に身寄りがない。終戦後、樺太から引き上げた母はその時に家族と離散している。また長らく眼を患っていたのだが、遂に失明してしまったのだ。目が見えないとなると入居する施設も限られ、また施設を「見る」ことも出来ない母の代わりに、ケアマネージャーと頻繁にやり取りをしながら、やっと仙台市内に母を受け入れてくれる施設を見つけた。
ところが最悪な事態が発生。なんと入居早々、施設内の階段から転落したのだ。
手術には身元保証人の同意が必要とのことで仙台に急ぐ。開放骨折(骨が出ている状態)の為、感染症の懸念から、洗いながらワタシの到着を待っていたという。手術は無事に終わったが、目の見えぬ母は歩けなくもなってしまった。

 

同じ頃に盛岡のとある会社社長と知り合った。なんでも大阪支社を開設したとのことで、来阪の度に来店してくださった。ある時「ともんさんは盛岡ではコンサートをしないのか?」ときかれ、岩手を離れて30年以上経ち、既に親兄弟親戚も、懇意にする者もいないと答えると、会社主催の行事でゲストとして唄ってほしいとのありがたいご依頼をいただいたのだ。
そして久々に盛岡へ向かい、初めて故郷で唄うことが叶った。ワタシはどうも「雨男」らしく、当日の岩手は豪雨。本番中に河川水位上昇を報せる携帯のアラートが鳴っていた。

(盛岡での初コンサートのひとコマ)

片手で足りる程ではあったが、高校の同級生も来てくれたのだが「雨ニモマケズ」を唄ったワタシに、宮沢賢治の故郷である花巻在住の同級生が「今後も賢治作品を素材にするなら、ゆかりの地を案内するから花巻へおいで」と言ってくれた。
この一言が後に大きな鍵になる。そして、ワタシは間もなく花巻へ飛んだ。

(羅須地人協会にて)

雨ニモマケズ以外の賢治さんの作品もいくつも読み、その人となりを知るべくインターネットで様々な情報を集めていると、賢治さんが作詞作曲した歌がいくつかあることを知る。
「これだ!」と閃いた。大阪人にとって岩手は未知の国。ワタシは雫石町出身だが「小岩井農場があるところで生まれた」と言うと「え、小岩井て北海道ちゃうの?」こんな具合だ。しかし、宮沢賢治を知らぬ者はいない。「そうだ、折角歌手としてステージに立つようになったのだから、賢治さんの歌のステージを企画してみよう」と楽譜を集めた。更に「賢治さんを象徴する、あの帽子にコートの出で立ちで唄おう。そうだ、銀河鉄道に乗ってタイムスリップした賢治が、生い立ちを語りつつ唄うのはどうだろう?そこに岩手の風物を盛り込み、岩手を知ってもらうのだ!」と、賢治さんになりきった独りミュージカルのような物をやると決めた。

脚本など書いたことがない。筆が進んでは止まり、再び素材を集める為にパソコンに向かう。日々この繰り返しだ。
その時「創徳庵」というライブハウスのオーナーとの出逢いがあった。大阪の中崎町というところで古民家を改装したライブハウスだという。賢治さんを演じるには持って来いだとブッキングした。

実はその脚本を書きながら、岩手へのUターンをぼんやり考えるようになっていた。母のアクシデントで近い将来仙台に転居しなければならないかもしれないと覚悟していた時に、ワタシを盛岡に呼んでくれた社長の秘書が来店した。彼女に「将来盛岡か仙台に引っ越すとしたらどちらが良いか?」と尋ねてみた。すると仙台を推したのだ。「盛岡に来てくれたら嬉しいけれど、商売や音楽活動のことを考えれば、やはり仙台のほうが良いだろう」とのことだ。
予想どおりの答えだった。仙台は盛岡に比べれば冬もそれほど寒くなく、地下鉄も走っていれば国際線も飛んでいる。何より人口100万超の大都市だ。
実はその答えで岩手へのUターンを決めた。盛岡でなく仙台に転居することは、再び大都市のボリュームに依存することになる。それなら大阪にいながら仙台に通うのが良いだろうとも考えた。 

さて、世にも不思議な賢治さんの音楽劇「中崎町イーハトーヴ」当日、雨男が本領発揮した。台風が大阪に上陸したのだ。
雨に濡れながらも続々とお客様が集まり満席になった。拙いながらもなんとか初演を終え「本日は雨ニモマケズ・・・」と洒落にならない挨拶をする。そして、岩手にUターンすることを公表した。涙で言葉に詰まり、静まり返った会場に風の音が轟々と響いていた。

(「中崎町イーハトーヴ」初演の様子)

再びの大阪暮らしは4年、本町燈門は3年2ヶ月営業した。短くも内容の濃い時間だった。半ば逃げるように東京を去った悔やみもあり、残る日々を丁寧に過ごした。
創徳庵オーナーの「きっしゃん」こと岸田浩一さんが、本町燈門を継ぐことになったのも運命的だった。家主と折り合いが悪く、退去を考えていたところだったのだそうだ。

いよいよ引っ越し。「きっしゃん、あとは頼んだぞ」と店を出て、空港近くのホテルで1泊し、翌朝飛行機に乗った。心は晴れやかだった。東京を離れる時は満身創痍だったワタシも強くなったものだ。
盛岡の新店舗に着くと、前日に大阪を発った家財道具と店の什器とピアノを積んだ“なにわナンバー”の3トントラックが既に待機していた。35年ぶりの盛岡暮らしが始まった。