第3章 更なる展開

姉の突然の死から数ヵ月が過ぎて、少し悲しみも癒えた頃、大地が大きく揺れた。
2011年3月11日午後2時46分、東日本大震災発生!東京港区の自宅マンションにいたのだが、これまでに経験したことのない身の危険を感じる揺れだった。それでも幸い港区はライフラインが止まることもなかった。
揺れが収まるのを待って店に向かった。地下は揺れに強いと聞いていたとおりグラスひとつ落ちていなかった。帰宅困難なお客様と一緒に電車の復旧を待ちながら、店のテレビを朝まで見ていた。次々に画面に映し出される津波の映像にただ茫然とするばかりだった。

仙台に住む両親と連絡がついたのは1週間後のことだった。持てる限りの支援物資をリュックに詰め空路で山形へ、そしてバスで仙台入りした。東京に戻るや否やぎっくり腰になってしまったが、そんなことは取るに足りない。しかしながら、相次ぐ余震に怯える両親は長崎に避難移住するなど、しばらく落ち着かなった。

それでも徐々にお客様も戻り、なんとか今年も越せそうだなと胸を撫で下ろしていたその年の暮れ、同じビルの2階店舗が空いた。震災後の客足の鈍りで閉業したのだと思う。ラ・サール高校OB専用のクラブだったそうだ。グランドピアノがあることは知っていた。ビルオーナーに中を見せてほしいと頼むとピアノはまだある。なんでも「アラ」というシャンソニエがビルが出来た当時営業していたとのことで、ピアノは退去するときに置いて行ったのだそうだ。同じビルに二軒もシャンソニエが入っていたわけだ。いい時代だったのだなと思う。
大きな窓から新橋のシンボルであるSL(駅前の蒸気機関車)も見える。しかしながら、家賃は更に上がるし、ところどころ修繕する必要もある。折角のご縁だったアダムス跡を出ることにもなる。

そして2月3日(節分)を迎えた。実はこの日は早瀬さんの御命日で、必ずアダムス時代のお客様と従業員が来店していた。
「皆さんが集っていたこの場所で早瀬さんの偲ぶ会をするのは、今日で最後になるかもしれない」と、2階が空いたので移転を考えていることを告げると、元従業員の方が「早瀬はライブハウスというよりもシアターを目指していた。ともんさん、是非そうしてください」と。

この一言で再び身の丈以上のことにトライすることを決めた。大家さんに告げると、それまでの店舗を契約した時に収めた保証金をそのままに、2階に移ってよいとのこと。
見栄を張って、ウィリアムモリスの壁紙を貼り、照明をシャンデリアに替え、スワッグを施したカーテンをオーダーメイドするなど、借金もほぼ完済し、僅かながら蓄えもできたというのに、また全てつぎ込んでしまった。

そして、ボーカルレッスンの日に2階への移転を告げると、鏡を使ってほしいとユキさん。実は早瀬さんの形見分けでアダムス店内に掛けられていた大きな鏡をもらったそうなのだが、お住まいには適したスペースもなく、ずっとクローゼットにしまったままだとのこと。ユキさんから歌を習い始めてかれこれ4年は経っていたので、それなりに信頼関係も築いていたし、早瀬さんも「こいつならいいだろう」と天上で思ってくださったのかもしれない。その鏡はモリスの壁紙の上にしっくりと収まった。

(盛岡の現店舗に掛けているアダムスの鏡)

2階の店舗をオープンして間もなく、アダムスに出演なさっていた荒井洸子さんから電話があった。新川いく子さんという歌手の発表の場として使わせてほしいという内容だった。そして後日、新川さんを連れてご来店。シャネルスーツの似合う、スッと背筋の伸びた圧倒的なオーラを放つ方だった。
なんでも新川さんは六本木で「えるべ」という店を経営していたが閉業。しかしながら、時折当時のお客様が集い、えるべを再現できる場所を探していたとのこと。ワタシは是非どうぞ!と答えた。そして月1の「えるべステージ」はスタートした。
新川さんの伴奏者は荒井さんの御主人でギタリストの小川至さん。「ケロちゃん」の愛称で親しまれる小川さんは、とても穏やかでユニークな方だった。なんと、かの銀巴里でも弾いていたという。
小川さんのギターに当時の燈門の従業員の桃太郎のピアノ、そしてワタシのフルートの伴奏で新川さんとその門下が繰り広げる「えるべステージ」は毎回盛り上がり、新生燈門の欠かせないイベントとなった。
ある時、メンバー紹介の後で「今日はともんさんも歌います」と新川さん。一瞬固まったが、既に歌は習っているし、ここは自分の店、断っては場がしらけてしまうと思い、一曲披露。それがワタシの歌手デビューとなった。

(えるべステージの様子)

新店舗は40席近くあったが満席になる日もあった。えるべステージのみならず、大御所シャンソン歌手の須美杏子さん、そしてフルートの師匠である井上信平さん、もちろんユキさんのコンサートも開催したし、キャパシティが大きいということで、日舞、ベリーダンスなど、様々なイベントを開催した。
また、日本テレビ関係の音響専門の会社から機材も提供され、気が付けばそれなりにライブハウスの様相を呈するまでになっていた。ライブのない日もまたお陰様で賑わった。だがしかし、このまま東京で店を続けることに疑問を感じるようになっていた。

28歳の時、勤務先が倒産。スナックでのアルバイトを経て、30歳で渋谷に開業して10年、そして新橋で8年、思えばずっと走り続けていた。
その頃、大阪に本社を構えつつ東京にも拠点を持つ女性経営者と知り合った。また、母校関西大学の吹奏楽部の創部60周年の行事の為、久々に大阪へ行く機会もあった。「大阪に転居するのも良いかもしれない」と考え、その女性経営者に相談した。すると「a&w(アート&ワイン)というユニークな店があるから一度そこでコンサートをやってみたら?」とのアドバイス。そして、大阪移住を見越したトライアルライブであることは誰にも告げずに敢行したのだ。
新橋の店に大阪から時折歌いに来ていたSARAH(サラ)さんの紹介で、ピアニストの吉田幸生さんに伴奏を依頼したのだが、SARAHさんはアダムスの常連客からの紹介だったし、吉田さんは後にワタシの初アルバムの音楽監督を務めていただくことになる。出会いは人生を豊かにするとは、まさにこういうことだなと思う。

初めての大阪コンサートには大学時代の仲間が大勢来てくれた。a&wは靭(うつぼ)公園という広く美しい公園脇にあり環境は抜群だ。そしてワタシが勤務していた会社の大阪本社からもほど近く縁も感じた。

それから間もなく、なんと「a&wの後継者として是非大阪へ」と名物オーナーの福田武先生とマダムの中西眞理さんが、わざわざ東京の店にお越しになったのだ。
近い将来大阪に拠点を移すことを考えていることを伝えてはいたのだが、まさかオファーがあるとは思っていなかった。a&w側と何度も話し合い、引き継ぐか否かは後々決めるとして、ひとまず従業員として雇ってもらうことにした。
しかしながら、新橋の店を閉めるということは、桃太郎を解雇することになるし、えるべステージも終了することになる。店が大きくなった分、閉める責任もまた大きい。「苦渋の選択ではあるが許してほしい」と、先ずは桃太郎と新川さんに告げ、そしてお客様にも公表した。涙ながらに惜しんでくれた方もいたし、大馬鹿者だと声を荒らげた方もいた。それだけ多くの方々に愛されていたことを知らされた。2階で営業したのはわずか2年。それでも、自分で言うのも何だが有終の美を飾れたと思う。失業、そして渋谷で開業してから何度も何度もトライを重ね、最高の状態で東京を去ることが出来たと思う・・・とは格好良すぎる。

(新橋燈門ラストライブ)

実は、今やっと告白するが、当時心身共に不調で、特に人混みにいると息苦しく感じるようになっていた。恐らく鬱状態だったと思う。引越当日、新大阪に向かう新幹線の中で、まるで脱獄に成功したかのような安堵感があったことを覚えている。半ば現実から逃れるように転居したものだから、東京でお世話になった方々への感謝が足りなかったなと今更反省している。

(大阪へ転居した時に乗った新幹線車内で撮影したもの 何故か保存していた)

ところで、折角内装もシャンソニエ調にしたし、グランドピアノのメンテナンスも欠かさなかったので、出来ればこのままライブハウスとしてどなたかに引き継ぎたいと思ってたところに希望者が現れ、新橋燈門は「ベッラマッティーナ」という素晴らしい店として生まれ変わった。
東京を離れた後、何度か演奏させていただいているが、コロナ禍ゆえ二年ほど東京に行くことすら叶わない状況が続いている。来年こそは東京でお世話になった方々の前で改めて感謝の気持ちを伝えるべく、歌いに出掛けようと思っている。

 

 

 

投稿者: ITOTOMON

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