「丘の町」

ワタシは母方の祖父母を知らない。祖父には会ったことがなく、祖母は残念ながら記憶にないと言うべきか。


祖母はワタシが二歳の時に他界。母が入居している施設の部屋に微笑みをたたえた祖母の遺影があるのだが、小さな手を握っており、それがワタシだとのこと。時に「おばあちゃん、ぼくの手を握ってくれてありがとう」と心の中で語りかけている。
一方、祖父のことを母の口から聴くことはほとんどなかった。というのも終戦を樺太で迎えた母の一家は祖母と母だけで「内地」に引き揚げ、遠い親戚を頼って石巻で暮らすことになったそうなのだが、その暮らしは惨憺たるもので、結局祖父は帰らなかったらしい。姉から「おじいちゃんは戦後の混乱に乗じて他の女のところへ行ったらしいの」と聞いた記憶はあるが、その姉も既にこの世におらず定かではないし、今更老いた母に尋ねるのも酷な話。母方のルーツは不明のままなのだ。
祖母は「まゆみ」という名だったことは知っていたが、祖父に至ってはその名すら知らぬまま時が流れたのである。
ワタシくらいが戦争の記憶のある親を持つ最後の世代だろうから、いよいよ耄碌する前にと、昨年、祖父のこと樺太のことを初めて母に尋ねてみた。
真岡(まおか)という町に住んでいたことは昔話してくれていたので、町のことを予習したのだが、77年前の8月20日にソ連軍が突如上陸し、真岡郵便局の電話交換手(全員女性)が集団自決した事件があったことを知った。「北のひめゆり」と呼ばれているそうだ。また、真岡は現在「ホルムスク」という西サハリンの中心地で、ロシア語で「丘の町」という意味とのこと。
そして、祖父は「勝男」という名だったことを、孫(ワタシ)五十路半ばにして知ったのだ。
父親の名を淡々と口にした母だったが、ワタシが「丘の町」と言った途端に見えぬ眼が一瞬潤んだのを見逃さなかった。丘の上から眺めた間宮海峡か、はてまた、そこに父親の手に引かれて行った記憶が蘇ったのか知らぬが「丘の町」という言葉にグッと込み上げてくるものがあったようだ。潤んだその眼を見つめ、それ以上その頃のことを尋ねるのは止めることにした。


引き揚げ船(疎開船)もソ連軍の潜水艦による攻撃を受け沈没事件も多発。もし、母がその船に乗っていたらワタシはこの世に存在していないと思う度、あの戦争が俄に身近なものとなる。


樺太といえば、宮沢賢治が亡き妹トシの魂の行方を訪ねる旅をした先でもある。ワタシもいつかその丘に登れば、記憶にない祖母、見知らぬ祖父の魂に触れられるかもしれない。祖父母といえば二親等、血が濃いわけだもの。

サハリン専門の旅行社から資料を取り寄せてはみたが、このコロナ禍、そしてロシアはまた戦争を始めてしまった。サハリンは近くて遠い。




※画像は樺太時代の真岡と現在のホルムスク

※北海道庁の旧庁舎(赤レンガの建物)の2階に「樺太関係資料館」という施設があります。現在リニューアル中につき閉館中とのことですが、再開後、札幌に行く機会があれば是非お訪ねください。