ちょっと大袈裟なタイトルを付けてしまいましたが(笑)年の瀬に過去を振り返ってみるのも悪くないでしょう?
これは「シャンソンと私」というタイトルで、随分前にブログに書いたもの(消してしまった)と、今年起きた不思議な出来事を合わせた、ワタシの音楽歴のようなものです。
なので、長ぁ〜くなりますが、ご興味のある方は読んでみてくださいね。年内に書き終えられるかなぁ?
「旅の終わりのシャンソン」
第1章 夜の新宿でシャンソンと出逢う
ワタシはシャンソンも唄うが、シャンソン歌手を名乗るには専門性に乏しく(というより勉強不足)、レパートリーも少ない。そもそも歌で食えるほど上手くもない。
30代の終わり頃、奈良親衛(ちかえ)さんというシャンソン歌手のご依頼で、フルート吹きとして初めて音楽の仕事をいただいたことからワタシの人生は大きく変わった。今思えば奈良さんとの出逢いは不思議なものだった。当時ワタシは渋谷の道玄坂で「ディオニソス」というカラオケスナックを経営していたのだが、周囲に風俗店が急増し、ヤクザが来店するようになるなど、店に出るのが嫌になっていた。そんなある日、店に向かう路上でポンと肩を叩かれた。ハッとして顔を上げるとそこに立っていたのは常連客。「何て顔して歩いてるんだ」と、まるで憐れむような表情でワタシに言った。「これは(いよいよ)ヤバいな」と、メンタルが病んでいることに気付いたワタシは、その日、臨時休業の張り紙をして新宿へ飲みに出かけた。
その時に飛び込みで入ったお店でワタシの相手をしてくださったのが奈良さんだった。多くのお客様がカラオケに興じ、お客様のリクエストで奈良さんも唄っていたのだが、それが上手い!「歌は習われたのですか?」とたずねると「シャンソンを歌っているんです」と奈良さん。「僕はフルートを吹いているんですよ」とワタシ。すっかり意気投合し、ほんの束の間、嫌なことを忘れられた。
その後も奈良さんのお店に通うようになったのだが、ある日恐れ多くも共演のお誘いを受けたのだ。
先ずはこれをと「小さなシャンソンの店の片隅で」という曲の楽譜を渡された。井関真人さんという今尚ご活躍のシャンソン界の大御所が作られた曲だ。
いよいよ本番、新宿の雑居ビルの地下のライブハウスはほぼ満席。いらっしゃるのは人生の大先輩ばかり。ジャズの店も良く通っていたが、その雰囲気とは異なり、固唾を飲んで歌詞(日本語の訳詞)に聴き入っている・・・久々に楽器を持つ手が震えた。
同じ頃に「エ・アロール」というテレビドラマで路上ミュージシャン役の出演依頼があった。ドラマのタイトルがフランス語だったこともあり、スタジオでシャンソンをいくつか収録し「小さなシャンソンの店の片隅で」も演奏しOKが出た。それが井関さんの了解を得る前にオンエアされたものだから、奈良さんに同行していただき、慌てて井関さんのコンサートへ謝罪に伺ったのだが、光栄なことだと喜んでおられた。しかもステージに呼んでくださり、フルートで演奏にも参加させていただいた。
そうして、奈良さんのコンサートにレギュラー出演させていただくようになり、いつしか端くれとはいえ、ミュージシャンと呼ばれるようになっていた。しかしながら、転調、アドリブとなると即応できないワタシに、その時のピアニストがアドリブレッスンを受けてみたら?とジャズフルーティストの井上信平さんを紹介してくれた。気が付けば吹奏楽に明け暮れた学生時代のように、ワタシの部屋には楽譜があふれていた。
そんなある日、時折貴重なアドバイスをくださるお客様が、いつもに増して真剣な眼差しでこう言った。
「このカラオケスナックのマスターで終わっていいの?貴方はミュージシャンとしてもっと世に出なきゃダメよ!人生には身の丈以上のことにトライしなければならない時が何度か訪れる、今貴方はその時を迎えている、背伸びをしなければ背は伸びないんだよ!」と。
思わず身震いした。
当時39歳だったワタシはちょっと虫に食われて、ウエストもキツくなってはいたが、久々にスーツなど着て、物件探し、そして金策に走った。
新宿、赤坂といくつか見て回るがなかなか良い物件が見つからない、しばらく様子を見ようかと思っていたところ、ふと飲食店専門の空き物件を紹介するウェブサイトで目に留まった物件があった。場所は新橋、「ライブハウス跡」とある。内覧の予約をし新橋駅前で待ち合わせた。
待っていたのはその仲介不動産会社の社長で、とても感じの良い方だった。ところが、開口一番「すみませんが、ライブハウス跡とありますが、なんでもシャンソニアとかだったらしく・・・」と社長。「あ、シャンソニエですね?」とワタシ。「呼ばれたな」と思った。
シャンソニエとはフランス語では“歌を作り唄う人”という意味だが、日本ではシャンソン専門のライブハウスを指す言葉として定着している。奈良さんと演奏した新宿の箱もシャンソニエだった。シャンソン愛好者はそう多くはない、ましてや「ライブハウス」というキーワードに惹かれて30代の男が見に来たのだから、例えば鉄パイプ剥き出しの設えのほうが良いだろうと想像していたのだろう。
物件は駅から僅か2分。きれいなビルだ。地下へ降りていざ入室!一歩進んだ途端にピンと来た・・・というかその瞬間に「ここでやろう」と決めた。
予定していた初期費用をかなり上回るが、その社長もまたワタシを諭してくれた。「お金の借り方からアドバイスをする、何より周囲環境が良い、これまでネックになっていたことが解消される」等々、熱く語ってくれた。そこに商売の匂いは全く感じられなかった。
そして再び大きな借金を背負い、契約した後、真っ先に奈良さんに報告しようと新宿に向かった。地図を指差し、ここに移転すると告げると「おや?アダムスの跡だね」と驚かれた。聞けばアダムスはシャンソン界では知らぬ者のいない名店で、出演歌手のレベルが高く、「銀巴里なきあとはアダムス」とまで言われていたという。そして何より早瀬かず椰さんというマスターのお人柄が素晴らしいと評判だったそうだ。なんとその早瀬さんが急逝し閉店したとのこと。しばらく経ってから知ったのだが、最終営業日の出演者は井関さんだったそうだ。
それにしても、ワタシは何故こんなにもシャンソンに縁があるのだろうか・・・不思議でならなかった。
そしてワタシも今後ミュージシャンを名乗るならばと、芸名を「伊藤ともん」とし、屋号も「燈門」と改め、40歳の誕生日を目前に新橋に移転開業した。会計士の先生が使っていたアップライトピアノを譲っていただき、なんちゃってライブハウスのスタートだ。
実は、その命名者は奈良さんだったのだが、残念ながら数年前に鬼籍に入られた。
ディオニソスを経営していた頃