それぞれの3.11

昨晩Oさんというお客様が久々に来店。28年というそこそこ長い間、東京、大阪、そして盛岡で店をやってきたワタシ。このところ加齢もあってか、お客様のお顔とお名前が一致しない。そして、接客しながら「この方の初来店はいつだったか?どなたのご紹介だったか?」と探ることが増した。

昨晩もそうだったが、すぐに思い出した。Oさんは陸前高田出身のM子さんの弟で、M子さんは東京の新橋でお店をやっていた頃に初来店。そして、M子さんを連れて来たのはロンドンに住むワタシの義妹のN子だ。N子は仙台の施設で暮らす母の再婚相手の娘。後に母はその夫と離婚したが、今もワタシは時折母を施設から連れ出しては三人で会食をしており、ワタシは彼をパパと呼び親しくしている。

実はM子さん姉弟と義妹N子との出会いは震災がきっかけだった。
12年前の今日、ワタシは東京港区の自宅にいた。震度5強という経験したことのない揺れ、そして長い!収まるのを待ち、携帯と財布を持って慌てて外に飛び出し、ワンセグで震源地が宮城県沖と知る。当時仙台市内のマンションで二人で暮らしていた母とパパ。母はその頃既に失明もしており、これは大変なことになったと、何十回とパパの携帯に電話するも繋がらない。
自宅近くのホテルの公衆電話からかけてみると一度だけ、それもごく短時間繋がり「幸町小学校に避難する!」とのパパの叫び声を最後に暫く連絡は途絶えた。

それから数日悶々とした日々が続いたが、Twitterで両親の名と避難先を載せ、情報求むと書き込むと、ロンドン在住のN子という日本人女性からメッセージが届いた。
パパの娘だった。パパは全く過去のことは語らない人で、パパも再婚であることと、一関出身だということしか知らなかった。N子はパパと長い間連絡を取り合うことはなかったそうだが、いても立ってもいられず、父の名をネット検索し続け、ワタシの書き込みを見つけたのだそうだ。

さて、震災から1週間後にやっとパパと連絡が取れ、母と共に無事であることを知り、N子にも報告。
東北新幹線と東北自動車道も不通だったが、山形からバスで仙台入りすることが出来た。航空会社に勤めるお客様が羽田−山形便を即手配してくれて、運べる限りの支援物資を背負い羽田に向かった。
母は入院していた。まず病院に向かい手を取り合い互いに涙した。その後、パパのいるマンションへ。
東京を発つ前にパパに必要な物を尋ねると「生ものが食べたい」と言う。配給はおにぎりやパンがほとんどなのでキュウリ1本でもいいから生ものを口にしたいとのこと。食欲があるとは何よりと安堵し、キュウリやバナナ、そして缶ビールを持っていった。
ようやくパパのマンションに着くと、近所の若い方々が倒れた家具などの片付けをしてくれたとのことで、生活スペースは確保されていた。「ご無事で何よりです」と声をかけ、キュウリをつまみに缶ビールで乾杯。そしてN子から連絡があったことを伝えると、缶ビールを持つ手が震えていた。沈黙のあと「どうして娘のことを?」とパパ。インターネットで安否情報を求めたところ、海の向こうで娘さんも同じことをしていたのだと答えた。
その夏にN子帰国。新橋のワタシの店を訪ねてくれた。その時に連れて来たのがM子さん。高校の同級生だという。後で知ったことだが、互いの家も行き来する仲で、パパもM子さんのことを覚えていた。M子さんは実家を津波で流され、お父様を亡くしたそうだ。
その後ワタシは大阪へ、そして盛岡へ転居。M子さんは盛岡在住の弟のOさんに、燈門を訪ねるよう伝えたのだそうだ。

昨晩Oさんは日が変わる少し前に来店した。日が変わり3.11を迎えた。Oさんのお父様の13回忌でもあるわけだが、特に何もしないとのこと。というのも、娘は就職、息子は大学受験、本人も異動と大忙しなのだそうだ。「これが復興なのだな」と思った。忘れない、そして前に進む!

今日は陸前高田の星、朗希が投げる。胸の熱い一日になりそうだ。
14時46分には盛岡にもサイレンが響くことだろう。東を向いて黙祷を捧げよう。




盛岡に転居したのは6月だったが、間もなく石油ストーブを購入した。避難所の光景を見て、電気要らずで暖が取れ、湯が沸かせ、照明にもなる優れモノと知ったからである。灯油は通年備蓄している。